なにをするのも自由,なにもしないのも自由,な,世界でも,人は歩み続けることができる。できる?
フリーソフトウェア財団の代表,リチャード・ストールマン氏にインタビュー。「フリーソフトは,日本語では無償ソフトという誤解を防ぐことができるので,『自由なソフト』と訳した方がよい」。「自由なソフトがあっても,そのソフトを動かすシステムが自由でなければ役に立たない」。「自由なソフトによって子どもはたくさんのプログラムを読むことができ,コンピュータと遊ぶことができて,凄腕のプログラマになれるかもしれない」。
人は完全な自由のなかでは生きていけない生き物だ,とも云われる。性悪説な考えかもしれないけど,なんの束縛もないところから,生まれるものはなにもない,と。制限のある社会であるからこそ,制限を活用したり,制限を回避したりする行動が生まれてくる,と。その考えのもとでは,自由なソフトという存在は成り立たない…。
自由なソフト,の最大の敵は,マイクロソフトなんかぢゃなくてそのような思考だ。で,それとの戦いの成果はと云うと,予想以上にうまくいっていると云える。もちろん,100%自由であるわけではない。記事中にもあるように,開発者は他の仕事を持ち,そのなかでソフト開発を行っている場合がある。開発するためにウインドウズを使っているとしたら,高いお金もかかっている。それらも束縛と云える。が,たとえそれらがあっても,自由なソフトという思考は,過去の思考を覆す力を存分にみせてくれている。さて,今後ネットワーク上に,自由なテキスト,自由な音楽,自由な映像が,どのように生まれてくるか? 先陣を切った自由なソフトは,なんらかの道筋をみせてくれているのだろう。
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